有事のルール−:「ファーイーストと部分最適」 [迫りくる法改正の荒波−21]
<序文>
前号で取り上げた通り、戊辰の役勃発は、生産技術の発展と余剰在庫問題に原因の一端があった訳ですが、その構図は、別の形で21世紀の現代にも引き継がれている、と見なければなりません。
その典型が、一時、最強の生産技術として世界を席巻した、お馴染みのJIT=トヨタのカンバン方式として名を馳せた「ジャスト・イン・タイム」と称される、必要な物を、必要な時に、必要な分だけ生産する「最適在庫」追求型プロダクト・メソッドです。
云うまでもなくこの仕組みには、仕入れの最適化や仕掛在庫の適正化による資金滞留の最小化、アイディア・工夫の蓄積を通じた技術の集積、職務と役割分担の明確化がもたらす指導育成体制の良質化と組織活性化、生産性の飛躍的向上等、数多の波及効果=すそ野の広いメリット=が認められるところであり、少なくとも大量生産・大量販売・大量消費時代には、うってつけの生産システムであった事は間違いありません。
無借金経営でもない限り、在庫増は金利を膨らませ、挙句の果てにそれがトリモチ資産=捌くにさばけず、トリモチの様に倉庫内に張り付いたまま動かせない不良資産=と化せば、ABL(Asset Based Lending=動産担保融資の略)も使えないばかりか、場合によっては棚卸資産の評価損計上すらできない、という負の連鎖を惹起こしかねないからです。
JITが持て囃されたのは、そのような事態を回避する救世主としての役割が期待されていた為であり、様々な業界で応用展開され、一部に大きな成果をもたらしたのは、紛れもない事実でしょう。
他方、JITで一部の事業者が手に入れた恩恵=リスクや費用の軽減=は、その質量分、誰かが負担をしている、と考えても決して不自然ではありません。
例えば資材業者や部品業者には、納品回数の増加による管理コストや小口配送化に伴う人件費・車両関係費等のコスト増(直接的負担)が発生し、納品先に通ずる産業道路や高速道沿線の地域には、通行量自体の増加や納品待機車両の増加に伴う環境汚染という負荷=間接的負担=が掛かります。
又、川下の業界が適正在庫推進の一環として調達の相乗り・一元化等の合理化を進めると、物流業界の負荷が増し、在庫抑制を図ったアッセンブルメーカーの製造拠点集約化は、一極集中の余り、拠点の事故災害による影響が多方面に及び、商品の供給不全=卸・小売業者&消費者の負担増=を招く等、経験上も明らかな事実があるからです。
この様な経済事象に、運動量保存の法則が応用できるか否かは兎も角、それが制度改定や法改正にどう影響を及ぼしているか、以下、検証してみたいと思います。
<本文>
●序文の例からは、アッセンブルメーカーが最適在庫=最適解の達成によって得た収益は、納入業者・関係下請け業者あるいは外部環境に転嫁された費用に見合う、という現実(A?-a1?-a2?-a3?…-an?=0の関係)が見えてきます。
つまりJITはその仕組み上、部分最適を目指すものであって、部分最適が部分不適の総和に等しいケース=ゼロサム=もあるという事なのです。
大抵は、A?+a1?-a2?-a3?+a4?…-an?の様に、一つの生産ラインでも或いはバリューチェーンでも、プラス/マイナスが入り乱れるのが一般的でしょう。
しかし仮にそうだとしても、部分最適≠全体最適という結論に変わりはありません。
一生産ラインに限れば、JITはゴールの理論=出荷又は出荷直前の製造工程での製品滞留が、ライン全体の生産性を低下させる最大の根本要因だとする理論=の究極の発展形とも云い得るでしょう。
●もし部分最適≠全体最適が公理とすれば、しばしば取り上げたトリクルダウン理論等は、正にその典型と云って良いかも知れません。
富める者に集積した富は、やがて下方にも滴り落ちて全体を潤す−という、部分最適が恰も全体最適に通ずるかの様な錯覚を生む、お伽噺に過ぎないからです。企業収益の向上はやがて設備投資を促し、賃金上昇をもたらす−だから、先ずは企業体力を底上げし、富を集中させる政策こそ優先されるべき−という論法により「部分最適が全体最適を導く」とする屁理屈(単なる目眩ましか方便程度かと思いきや、政策筋は本気でそう信じていた節があります)を推進してきた筈の為政者側=財務当局・官邸・日銀等=から時々漏れてくる’恨み節’と云ってもよい愚痴や要望の形で発せられる、押しつけがましい上に筋違いな「設備投資を急かし、賃上げを要求する発言」の背景には、財界の意向を汲んだ税制面での優遇措置の他、株価の維持上昇支援等、収益を上げ易い環境を整備し、内部留保も着実に積み上がるよう後押ししたにも拘らず、吹聴して来たトリクルダウンが一向に始まらない事への苛立ちが、明らかに見て取れます。
●当局の思惑通りに事が運ばない理由は、一体何なのでしょう?
受益者が恩知らずだからなのでしょうか?
−その訳は、ある意味明瞭です。
旧来の日本型(弱者救済・平等志向型)資本主義が、ファンドに代表される最大利潤追求型の株主資本主義(信奉者をマキシミストと仮称。その本質は、譬えて言えば、如何に安く豚(企業)を仕入れ、太らせて高く売り抜け、最大利潤を得て資金を回収するか−であり、経営理念や社員、関係者の思いなど端から眼中になく、「高く売る為に豚を飼育し飼育させる養豚業者」と何ら変わらない。)に変質してしまったからです。
覇権主義を源流とする株主資本主義が跋扈する世界では、部分最適が全体最適に収斂すると考えるのは、非現実的です。
この考え方に基づく部分最適は、他の部分不適なしには成立せず、又限りなくそれらの集合和に近づく為です。
次の「問い」がその証明となるでしょう。
[Q]銀座の賃貸物件で永年営業中の中華店は、どうして一杯300円のラーメンを提供し続けて来られたのか?
●…そもそも坪3万円もの賃料を払って、極めて低価格の商品を扱う等、マキシミストには想像すらできず、「皆さん(の懐に響かず)に喜んで貰えるなら、私達は食べていけるだけで満足」という店主夫妻の心情=一部の者が他の者の分まで分捕って圧倒的に果実を手にするより、関係者の共存共栄を良しとする、仏教的世界観にも通ずる「適正利潤」思考=など到底理解出来ないでしょう。
けれども、極東の地に住む我々にとって、そこに共感し得る答えが滲むこの問いは、必ずしも難題とは云えず、難題にならない風土だからこそ、そこに欧米型の政策を直輸入し、欧米型の法整備を進めようとする当局の姿勢は、尚更厳しく問われなければならないのです。
著者/
常に決断を迫られる経営者。
私達は常に経営者の傍らでその背を支え続けます。